「マクベスは眠りを殺した。あの甘い眠り、どんなに卑しい者にも必ず訪れる眠り、それがマクベスには二度と訪れない」というセリフを皆さんご存知ですか?

睡眠について書こうとしたら思わずこのセリフを思い出しました。シェークスピアのマクベスです。甘いのです、眠りは。そして誰にでも必ず訪れるのです。不眠に一度でも悩んだことのある人には心打たれるセリフだと思います。子供のころ読んだマクベスは魔女にそそのかされ悲惨な最期を遂げた愚かな武将というイメージしか残っていませんでした。しかし、大人になって仲代 達也のマクベスを見て、そのイメージは間違っていたと感じています。今日は少し脱線してマクベスについて考察してみます。

まず、魔がさすとき、それは外からくるものではないということです。マクベスは王に忠義の武将ですが、心の中には王の一族で王になる資格があるのに、常に戦場に駆り出され危険な目に合うという不満があったようです。今まで押さえつけていた不満や野心を魔女にあばかれてしまうのです。魔女の誘惑もよくできていますね。同じ様に、心の中に世に認められない恨みをため込んで虎になってしまう男の話を中島 敦が山月記で書いています。心の中で虎を育てないようにしないと危険なのです。もっともマクベスは魔女から離れるとその影響から自由になり王の暗殺をやめようとします。

ところが、そのタイミングでマクベス夫人が登場してしまうのです。妻のほうが夫の計画に乗り気になってしまい、ためらう夫を暗殺に引きずってしまいます。マクベスはやめてくれと懇願するのですが、結局抵抗できず暗殺を実行します。良心の呵責を持ちながら犯行を行ったため犯行直後にすぐさまこの眠りを殺したというセリフが出てきます。

犯行後は、今度は恐怖がマクベスを支配します。自分が暗殺されるという被害妄想にかられて家臣の殺戮を続けます。これも歴史上よく見受けられるのですね。権力者はしばしば、恐怖から殺戮を止められなくなるようです。この芝居の中で睡眠に関連した精神症状がほかにも出てきます。夢中歩行です。これまで気丈にふるまってきたマクベス夫人もついに破綻してしまうのです。シェークスピアはこの現象を知っていたのでしょう。夫人は夜中に徘徊して手を洗う動作を繰り返し、手に着いた血がいくらやっても取れないと嘆くのです。これは悪性の寝ぼけで高齢者においてはしばしば起こります。

そして最後にトゥモロースピーチが来ます。敵に囲まれ、支えになっていた妻が自殺したと知った時のセリフです。子供の時にはすべてを失って、ただやけくそになった男のセリフと思っていました。おそらくシェークスピアもそういう意図でこのセリフを書いたのでしょう。愚かな暴君の最後を観衆は因果応報と見ていたのでしょう。

しかし、何百年も繰り返し上演される中で観客と俳優たちはこのセリフの意味を変えていったようです。現在ではこのセリフは魔女の呪いが解けて真実の自分に戻った時のセリフと解釈しています。何とか成功しようとしてもがいたことがすべて裏目に出てしまったことを悟ったマクベスの独白に我々は同情せざるを得ません。さらにこのスピーチはそれだけで終わるのではなくて、絶望的な状況の中でも最後の戦いで自分らしく終わろうとする男のセリフになっています。絶望から始まり希望を観客に与えるという意味を持たされています。バーナムの森が動いたりするのはトリックとしては面白いけれど、芝居としてはこのスピーチで終わってもいいと思います。

芝居というのは映画とはまた違う不思議な性格があるようです。演劇はだから虚構でいいように思います。チャンスがあればぜひともこの演劇を鑑賞することをお勧めします。